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都市歩きVol.1 日仏友好が生んだ「横須賀」を歩く その1

 こんにちは、fermongです。

 先日、横須賀まで足を運んだので以下、その時の記録を掲載しています。その1と題したこの記事では、筆者が主に横須賀駅前周辺を歩きながら遭遇したことも含めつつ、横須賀が発達した初期の歴史を中心に記述しています。この記事を読めば横須賀が軍都として発展した原点について知ることができるでしょう。そこには、現在アメリカの海軍が駐留している事実からは意外にも思える、フランスの存在がありました。

 自分が誰も知らない、そして誰も自分を知らないような街に繰り出して気ままにブラブラするのは、日頃のゴタゴタから解放されて目の前の風景だけに集中できるせいか、やはりいいものですね。

 

 

 

着く前から始まる都市散歩。横須賀線に隠された秘密

横須賀線は最重要路線だった

 さて都心から横須賀へと出発です。休日の午前ということもあって、品川からすでに空席がちらほら見えます。その中の一つに腰を下ろしましたが、アナウンスによると今乗っている車両は途中の逗子止まりの様子。次の西大井で車両を乗り換えます。

 JR品川駅からJR横須賀駅までは、横須賀線でおよそ60分ほど。横須賀線鎌倉市大船駅から鎌倉駅逗子駅横須賀駅を経由して横須賀市久里浜駅まで至る路線です。都心に通勤・通学される方なら「逗子」や「久里浜」は電車の行き先で見たことがあるな、とお思いでしょう。

 

この横須賀線ですが、その歴史を紐解いてみると、他の路線とは随分違った出自を持っていることがわかります。まだ横須賀にはたどり着いてもいませんが、鉄道を媒介に考えてみると、街自体の性格が良く見えるものです。下の年表をご覧ください。主なJR路線が最初に開業した年度を示しています。

 

1872年(明治5年) 政府、新橋〜横浜間に新線建設(後の東海道線)…日本初の鉄道

1883年 (明治16年)日本鉄道、上野〜熊谷に新線開業(後の高崎線宇都宮線

1885年 (明治18年)日本鉄道、品川〜池袋〜赤羽に新線開業(後の山手線埼京線

1889年 (明治22年)甲武鉄道、新宿〜立川に新線開業(後の中央線

                   水戸鉄道、小山〜水戸に新線開業(後の常磐線を含む)

                   政府、大船〜横須賀に新線開業(後の横須賀線

1894年 (明治27年)総武鉄道、市川〜佐倉に新線開業(後の総武線

 

 興味深いことに、現JRの主要路線の多くを最初に開業させたのは政府ではなく、私鉄会社なのです。年表には掲載していませんが、その延伸も主に私鉄会社によって行われています。1880年代の日本では多くの政商が力を持ち、都市を中心に私鉄会社の設立が相次ぎました。この年表もその世相を反映しています。その一方で横須賀線は、その開業が政府主導によって行われました。この事実は、当時の政府がいかに横須賀を重視していたかを示す一つの鍵になります。

  新川崎到着のアナウンスが流れた後記憶が途切れ、気がつくとすでに列車は鎌倉に到着しています。行楽客でしょうか、大勢の人が降りていき、車内には空席が目立つようになりました。次の逗子からは先頭の4両を切り離し、三浦半島の付け根を西岸から東岸へと横断します。

ん、東から西じゃないの?とお思いかもしれませんが、上に載せた地図からもわかるように、東京から大船方向に向かう線は横浜を出ると大きく内陸に入るんですよね。そのまま南下して鎌倉に出て、そこから横須賀を目指すことになります。

 東海岸に出たあたりで横須賀市に入ります。市内初の停車駅は田浦という駅なのですが、この田浦駅から山の方向に向かうと「東京から1時間で来れる廃村」と異名のついた旧住宅街に出ます。実際に行くのはお勧めしませんが、多くの潜入記が公開されているので、詳細が気になる人は「田浦 廃村」で検索してみてください。

 

一段の段差もない横須賀駅

 さてこの次の駅が横須賀駅横須賀線開通と同時に1889年(明治22年)に開業した歴史ある駅です。ここで降りて、京急線横須賀中央駅へと徒歩で向かいます。

 

 横須賀駅は普通の駅とは構造が異なります。まずホームがあり、その両側に一本ずつ線路があります。ここまでは普通の駅のホームです。ですが横須賀駅の場合、このうちの海側の線路が行き止まりになっていて、その先に改札口があるのです。一方山側の線路はそのまま久里浜方向へと伸びています。つまり、久里浜方向に向かう列車と久里浜から来た列車が同じ線路に到着するのです。横須賀駅から北は複線、南は単線になるからこそこんな構造でも成立してしまうんですね。海側の線路は当駅を始発とする東京方面行き列車のみが使用します。(駅構内の写真を撮らなかったので…わかりにくい説明でスミマセン。)具体例を挙げて説明するなら、井の頭線渋谷駅の片方の線路をそのまま真っ直ぐ伸ばして別の路線にしてしまったような構造、とでもいうべきでしょうか。

 この構造により、改札に入ると一段も階段を上り下りすることなく電車に乗れるわけです。ですがこれだけではなく、横須賀駅は改札外にも全く段差がないのです(下写真)。

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横須賀駅舎。1914年(大正3年)に新築された。筆者撮影。

 これはひとえに、横須賀線の設立された経緯に関わってきます。

 明治初期から三浦半島、ことに横須賀周辺は東京湾防衛の要として、帝国陸軍、海軍の軍事施設が立地していました。海軍は1884年(明治17年)に東日本の艦隊を統括する鎮守府を横須賀に移転させていますし、陸軍も東京湾要塞の施設として沿岸に砲台を数多く設置し、その司令部を横須賀市上町(現在の横須賀中央駅南側の地区)に置いていました。1880年代は現在よりはるかに軍事衝突の危険が高かった時代です。現に1894年(明治27年)には中国(清)と、1904年(明治37年)にはロシアとの戦争が勃発しています。当時の政府は、軍事力の強化に一層の力を入れていたのです。

 しかし東京湾防衛の要たる横須賀地区は全体が山がちな地形であり道路状況も悪く、物資・兵士の搬出入は横浜〜横須賀間の海路に頼らざるをえませんでした。ところが海上輸送は積み込みに時間がかかる上、天候にも左右されやすく、その効率は極めて悪かったのです。そこで政府は、横須賀に至る鉄道の建設を検討し始めます。以下、横須賀駅入り口の銘板にその事実が記されています。

明治十九年六月、陸海軍は、鉄道布設の必要性を記した請議書を海軍大臣西郷従道陸軍大臣大山巖の名を連ねて総理大臣伊藤博文に提出しました。この求めに応じて鉄道局は、翌二十年に測量を開始し、二十一年一月に工事を起こしました。 

 こうして横須賀線は1889年(明治22年)6月、建設開始からわずか1年半で大船〜横須賀で営業を開始し、途中駅として鎌倉駅逗子駅が設けられました。終点の横須賀駅では貨物設備も設けられ、多くの軍用品がこの地に降り立ちました。その運搬に支障をきたさないように、横須賀駅は段差が一段も存在しないように設計されたのです。貨物輸送自体は、1944年(昭和19年)に横須賀線久里浜まで延伸されてからも続けられましたが、1984年(昭和59年)には横須賀駅での貨物取り扱いは終了しています。時代の流れですね…。貨物設備の跡地には「ウェルシティ横須賀」という高層マンション群が建っています。線路・駅跡ということで土地自体が細長く、建物同士が一列に並んでいるのが特徴です。

 

艦艇に見守られる街

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駅方向から横須賀港を望む。筆者撮影。

 改札を出てこぢんまりとしたロータリーを抜けると、すぐ目の前に海が広がっています。その中でも一際目を引くのが、正面にいくつも見える艦艇の数々。船体に書かれた番号によると、向かって左側に見えるのが海上自衛隊の「はたかぜ」と「やまぎり」です。その奥には最新鋭のイージス艦「きりしま」も見えます。正面奥に見える艦艇は判別できませんでしたが、右側の敷地は米海軍のものなので、アメリカの艦艇でしょうね。見える限りでは原子力空母「ロナルド・レーガン」は確認できませんでした。

 ここから海沿いにかけては「ヴェルニー公園」という近代的な西洋風公園が広がっています。ヴェルニー公園の前身は1946年(昭和21年)に開園した臨海公園という公園で、2001年(平成13年)にかつてこの地の発展に貢献したフランス人技師ヴェルニーの名をとって、現在の形に整備されたということです。

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引用元:ヴェルニー公園について|ヴェルニー公園/三笠公園

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公園内から横須賀駅方向を望む。筆者撮影。

 公園は非常に開放的で、海側にはウッドデッキが、山側には芝生やバラ園が整備されています。見たところ細部に至るまできちんと管理されているようです。海を望むように設置されたベンチでは地元のご老人が本を読んでいたり、うつらうつらと船を漕いでいる光景が見られました。また公園内をスポーツタイプの自転車を押しながら歩く人もいます。三浦半島は程よいアップダウンやその景観の良さからサイクリングで訪れる人が多いのです。僕も昔横須賀からさらに南の三浦市一帯をサイクリングしたことがありますが、評判通り非常に爽快でした。

 公園内のバラ園では、世界各地で作られた130種類2000本のバラが春と秋に花を咲かせます。冬真っ只中ということで僕が訪れた時には全くでしたが…。下の画像は秋に撮影されたものだそうですが、確かに満開を迎えています。右側の建物の正式名称を知りませんが、この西洋東屋(?)、横浜市にある「海の見える丘公園」にも似たような建物がありましたね。フランス風の建築なのでしょうか。

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秋、満開を迎えたヴェルニー公園のバラ。引用元:横須賀写真ライブラリ

 写真左奥に見えるのが公園の終点向こうにある「ショッパーズプラザ」というイオン、正確にはかつてのダイエーが運営しているショッピングモールです(今やダイエーにも「かつての」という形容詞がつくんですね…)。港を海上からめぐるクルーズツアーもここから発着しています。中央奥に見える高層ビルが横須賀芸術劇場の建物で、そのほぼ真下に京急線汐入駅があります。その次の駅が横須賀中央駅で、市街地もそこになります。

 

単純かつ最大の疑問:なぜ横須賀は軍都として発展してきたのか?

 それにしてもこの公園の名にもなったヴェルニーとは一体何者なのでしょう。彼は全国的な知名度こそ低いものの、横須賀が発展する礎を築いたまさに第一人者なのです。上記の横須賀線のお話からさらに30年ほど前の幕末、 異国の地で汗を流したヴェルニーの偉大な功績、そして横須賀という都市の原点に迫ります。

フランスの協力

 ヴェルニーは1837年(天保8年)にフランスで生まれ、1858年(安政5年)に地元の海軍造船学校に入学し、23歳の時、ブレスト工廠で造船業に従事するようになります。その頃のフランスは中国と対立関係にあり(アロー戦争)、その講和後も慢性的な武力衝突の危険があったため、政府は上海郊外に造船所を建設することを決定、ヴェルニーを中国へと派遣します。しばらくそこで働いていたヴェルニーですが、当時のフランス駐日大使ロッシュから日本に来ないかという誘いを受けます。

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フランソワ・レオンス・ヴェルニー(1853-1908)とレオン・ロッシュ(1809-1901)

 当時の江戸幕府は、1853年(嘉永6年)のペリー来航に前後して、外国船が次々と日本近海に現れるようになっていたことに頭を悩ませていました。200年以上続く鎖国体制が大きく動揺していたのです。これに対抗するため江戸幕府は多くの戦艦を建造、購入していましたが、その修理や拡張を行う場所が国内に必要でした。その重要性を特に主張していたのが当時の勘定奉行(幕府の財政を担う)の小栗(上野介)忠順です。彼は異国船に対処する警備役を務めたのち1860年にアメリカに渡航し、最新鋭の海軍設備を見学、その技術力の高さに驚嘆するとともに、日本の未熟さを痛感していたのです。彼はフランス人通訳と仲の深かった栗本鋤雲を通じてロッシュに連絡を取り、フランスの援助の下製鉄所(造船所)を建設する計画を軌道に乗せました。彼らの熱意に動かされた幕府は1864年(元治元年)に正式に製鉄所の建設をロッシュに依頼し、そのロッシュが当時中国にいたヴェルニーを招いたわけです。彼らは早速、建設場所の選定にのりだしました。

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小栗上野介忠順(1827-1868)と栗本鋤雲(1822-1897)

なぜ横須賀だった?

 彼らが横須賀を選んだ理由は幾つかあります。

  1. 湾が入り江であり風波の影響を受けにくく、船の停泊に必要な深さ・広さを満たしている
  2. 湾の形が不規則であり、要害の地である
  3. 景色に優れ、フランスのツーロン港に似ている

といったものです。横須賀に製鉄所を建設することが確定し、130人のフランス人技師ヴェルニーが日本に派遣されてから10か月後の1865年(慶応元年)11月にその建設が始まりました。当時まだ寒村に過ぎなかった横須賀村に130人のフランス人技師、医者、教師がやってきたのです。横須賀は、フランスの最先端技術が集まる場所になっていました。

 建設の真っ最中の1868年(慶応3年)に大政奉還によって江戸幕府は崩壊し、旧幕府軍と新政府軍の間で戦争が勃発します。幕府側はヴェルニーに避難を勧めますが、彼は必ず工事をやり遂げると譲らず、危険が迫るとすぐに退避できるようにしつつ、工事を進めました。横須賀製鉄所の管轄は幕府から明治政府に引き継がれ、1871年(明治4年)に記念すべき第一号ドックが完成し、名称も横須賀製鉄所から横須賀造船所に変更されました。造船所で製造された最初の軍艦である「清輝」は、1875年(明治8年)に無事進水を果たしました。

 日本人だけで造船所を運営できることを確認したヴェルニーは、10年間にわたる任務を完遂し、1876年(明治9年)に帰国しました。横須賀村が横須賀町に昇格したのもこの年のことです。我が国最初の大規模造船所の周辺には軍施設、官営施設が続々と集まるようになり人口も増加していたのです。1884年には、前項で紹介した通り海軍の鎮守府が横浜から移転し、人口増加に拍車をかけました。後は冒頭で紹介した歴史へと繋がっていきます。横須賀の人口は明治初期にはわずか206戸だったものが、1888年(明治21年)には3094戸、人口15852人の立派な都市へと変貌を遂げたのです。

 

まとめ

 横須賀の発展の歴史、いかがでしたか。興味のない人には読みにくい文だったかもしれませんが、内容自体は十分興味深いものだと思います。横須賀の発展は、日仏友好の結晶たる、一つの造船所によってもたらされたのです。ヴェルニー公園では、横須賀製鉄所の建設は日仏友好の象徴、及びその始まりたる出来事だとして年に一回、「ヴェルニー・小栗式典」が開催されています。外務大臣やフランス大使も出席する、重要な国際式典です。

 長文の街歩き記事を書いてみた反省として挙げられるのが、ただ背景知識を羅列するだけではなくて、現地で歩いて見たものとの関わりをいかに深めるか、ということでしょうかね…。難しいところですが、次回以降には充実した内容を目指したいところです。

 さて、この記事はその1、となっていますが、その2、3も間もなく公開予定です。当記事では幕末から明治に主眼を置きましたが、その2では米軍基地周辺、横須賀市街地を歩くにあたって、

  1. 横須賀が戦前、及び第二次世界大戦で果たした役割
  2. 占領期における米軍進駐
  3. それを前提とした戦後横須賀の発展
  4. 市街地の現況から見る、今の横須賀が抱える問題

を取り上げられたらな、と思います。さらにその3では、浦賀久里浜を歩いた体験も交えながら、日本史最大の事件である(と勝手に思っている)1853年のペリー来航について、さらに三浦半島南岸で進むリゾート開発について詳しく取り上げる予定です。

 お読みくださってありがとうございました。以下に参考したサイトを掲載しますので、関心があればさらなる理解の一助としてください。

 なお、掲載した人物画像はパブリックドメインであることを確認して掲載しています。

リンク

よこすか歴史絵巻|横須賀市

横須賀の誇り!横須賀製鉄所(造船所)|横須賀市

横須賀とフランスの歴史~横須賀製鉄所の建設と日仏交流|横須賀市

120年以上の歴史あるJR横須賀駅に階段が全くない理由 - デイリーポータルZ:@nifty